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近鉄奈良駅の行基像は待ち合わせ名所!行基は大仏造立の立役者

近鉄奈良駅の行基菩薩像
行基菩薩像

奈良市民にはおなじみの定番の待ち合わせ場所。

それが近鉄奈良駅前にある行基さんでお馴染みの「行基菩薩像(ぎょうきぼさつぞう)」がある「行基広場です。

観光のスタート地点にも地元の人の待ち合わせ場所にもこれ以上わかりやすい場所はありません。

  • 東向商店街にちょっと買い物や食事に行くにしても
  • 東大寺方面に観光に行くにしても

すべてのスタート地点になる場所です。

奈良市民に「行基さんの像の前で待ってる」と待ち合わせ場所を指定されたらこの場所のことなので迷わないようにしましょう。

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近鉄奈良駅前の銅像 行基広場は定番の待ち合わせ場所

近鉄奈良駅の「東大寺・春日大社・興福寺」方面への出口を出たら右手に噴水がありその上に行基さんが優しいお顔をして立っておられます。

この場所こそ奈良の待ち合わせの目印になる「行基広場」です。

東向商店街のスタート地点でもあります。

天気のいい日曜日や行楽シーズンには地元の人の待ち合わせや観光客の休憩場所として大いに賑わっています。

ストリートミュージシャンが歌っていることもあるので本当に賑やかです。

行基菩薩像
行基菩薩像の前で托鉢をする僧侶

写真のように托鉢をする僧侶の姿も見ることができます。

実は現在の行基像は3代目で、初代の像は昭和44年(1969年)に奈良の「赤膚焼」という陶器製だったそうです。
(※赤膚焼の行基像は残念ながら実際の物を見たことはありません。)

しかし、のちにこの赤膚焼の行基像は何者かによって破壊され、2代目の像も自然劣化し、その後平成7年(1995年)に現在のブロンズ像を制作し現在に至っています。

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奈良の大仏さんに思いを馳せる行基像

実はこの行基像、ある方向を向いて立っています。

その方向とは奈良の大仏さんがいらっしゃる“東大寺大仏殿”の方角を向いて立っているんです。

では、なぜ行基さんが奈良の大仏さんの方向を見ているのか・・・。

それは、行基さんが大仏造立に多大な貢献をした中心人物だからです。

行基さんがいなければ現在の観光地としての奈良もなかったといっても過言ではないでしょう。

それほどまでに偉大な功績を残した行基さんとはどんな人だったんでしょう。

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行基とは?大仏造立の責任者、民衆と共に生きた高僧

行基さんは奈良時代(668年~749年)に奈良の大仏造立の責任者として多大なる貢献をし、民衆からは「菩薩」と尊敬されたえらいお坊さん(高僧)です。

平城京が栄えた時代、仏教は貴族のためのものでした。

そんな中、行基さんは仏教を民衆に広めるために各地を回り、飢饉や疫病で苦しんでいた民衆を救うために様々な社会事業を行いながら僧侶として民衆に仏の道を説いて回りました。

当時の民衆は地方から都に税を納めるためにわざわざ出向かなければならない決まりがありました。

民衆の負担を少しでも減らすべく、行基は人々がが寝泊まりしたり食べ物をいただける「布施屋」や「寺院」の設立に尽力しました。

そして民の力を借り水路や農地の開拓などの社会インフラの整備を行い人々の生活を豊かにすることに励みました。

このような行いによって民衆から仏様のような方という意味を込めて「菩薩」と敬われ人々は行基さんを慕って集まるようになりました。

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大仏造立は聖武天皇から行基への要請で実現!

行基さんの活動は朝廷からの弾圧を受けながらも「社会活動」や「布教活動」は続き続日本紀(しょくにほんぎ)』には49か所もの寺院を建てたことが記録されています。

そして、この時は天候不順による飢饉や災害、政治的な混乱もあり国の未来に憂いを抱いた聖武天皇(しょうむてんのう)から『廬舎那仏(るしゃなぶつ)/大仏』の造立を要請され、745年に行基は僧の最高位「大僧正(だいそうじょう)」に任命されました。

しかし、その後749年、行基は大仏の完成を待たずに82歳で亡くなり、その3年後の752年に大仏の『開眼法会(かいげんほうえ)』が盛大に行われました。

民衆の力で大仏の造立に成功したことで行基の「仏教は貴族のものではなく民衆のものである」ことを多くの人々に広めることに成功しました。

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まとめ

最後に噴水前にある石板に書かれている文字が非常に読みにくいので「文字起こし」しておきます。

行基菩薩案内板
行基菩薩についての案内板

行基菩薩

行基菩薩は天智天皇の7年(668年)に大阪府堺市に生まれ15才にして奈良の薬師寺に入り仏道修行とその研究に励み24才で受戒得度をされた 仏教の学問を良く究め天皇の尊敬を受け現在の平城の聖域に遷都することを奏し元明天皇の和銅3年(710年)に平城遷都した その造営にあたり先づ南都諸大寺の移建と建立 例えば薬師寺 大安寺の移建を初め興福寺 元興寺及び総国分寺 東大寺の建立等48の大寺院を建立された その他全国にわたり開基した寺院道場は約700におよぶといわれている 一方民生社会事業としても実践主義に徹し庶民を教化し人のために橋をかけ堤を築き池を掘り日本最初の独孤院や日本地図を作った また飢えと疫病に苦しんでいる庶民の救済として布施屋(宿泊所)施薬院などの社会の為の事業を次々に行い庶民の信仰を深め奈良朝に於ける国民思想の確立を計画され唐朝の文明文化を輸入し奈良朝文化に貢献された恩人である 今日の庶民仏教と社会福祉の基を開いたのは実に行基菩薩であると仰がれている 聖武天皇天平21年(749年)82才のとき奈良西部の菅原寺で数千の弟子に囲まれ遷化し生駒の往生院に葬られたがその生涯かけての業績の偉大さは1200有余年の今日もなほ多数の人々の心の中に行基菩薩は生きているのである
昭和45年3月
奈良市長 鍵田忠三郎

貴族のものだった仏教を民衆に広め、大仏さんの造立に大きく貢献した行基さんの存在なくして現在の奈良を語ることはできません。

民衆とともに生きた行基さんは今でも待ち合わせ広場の中心で庶民に寄り添ってくれています。

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